解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯
今回のブログを担当させていただくコーディネーターの菅原です。
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今回は「ドリトル先生」や「ジキル博士とハイド氏」のモデルともいわれ、近代外科医学の父とも呼ばれるジョン・ハンターについて2005年イギリスの女性ジャーナリストのウェンディ・ムーアによって書かれた「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯(ウェンディ・ムーア著、矢野真千子訳 河出文庫)」の紹介をしたいと思います。
時代は18世紀のイングランド。
当時の平均寿命は37歳で赤ん坊は2歳までに半分が死亡するといった状況でした。路上には死んだ動物がそのまま放置され、排水溝は人間の排泄物と動物の死骸を流しているという環境だったそうです。
血を抜く瀉血が治療法とされていた時代で、人の肉に触ったり切ったりする不浄な仕事は外科医か「床屋」に委ねられていたなど、外科医の地位が低かった頃のお話です。
この本の主人公であるジョン・ハンターは 1728年2月、グラスゴーの農家に生まれました。
少年時代は「雲や植物を眺めて、葉は秋になるとなぜ色が変わるのかをあれこれ考えるのが性に合っていた。アリやミツバチ、鳥、オタマジャクシ、毛虫を観察するのを愛していた。私は誰も答えを知らないこと、誰も気が付かないことを質問して回り、周囲の大人を苛立たせた」と本人が回想しており、そのせいか、13歳で学校をやめ、農場の手伝いや大工仕事等を行っています。
一方、ジョン・ハンターの10歳上の兄のウィリアム・ハンターはロンドンで内科医、解剖教室を開いており、それなりの地位を築いていました。
ジョン・ハンターが20歳の時、兄のウィリアムの招きにより、解剖教室のための遺体を調達する役割を担うことになります。
当時、遺体の調達は盗みや殺人により絞首台で死刑となった罪人が埋められたばかりの墓地にジョン・ハンターが忍び込み掘り返し持ってくるといった違法な方法をとっていました。
その後、ジョン・ハンターは兄の下で持ち前の器用さと観察眼を活かして解剖や標本づくりで実力を発揮していきます。
そして1761年、33歳のとき軍医に志願し自分の才能を活かすことになります。発見の一つとして銃創に対しては傷口をいじくりまわすよりも保存療法つまり静かに寝かせておくことが最善ということがありました。彼がこれまでの経験から、人間の自然治癒力を信じ、外科的介入を最小限にとどめるべきという仮説を戦場での多数の負傷者治療で確信したものです。
ジョン・ハンターは子供のころそのままに、当時確立された方法をすべて疑ってかかり、より良い方法の仮説をたて、その仮説が正しいかどうか詳細な観察と調査、実験を通して確認していきました。教師となった後も学生に「観察し、比較し、推論すること」を要求し、天然痘ワクチンを開発したエドワード・ジェンナーを育てました。
ちなみに彼は「国富論」で有名なアダム・スミスの痔の手術を行っています。
さらにジョン・ハンターは1859年11月のチャールズ・ダーウィンの「種の起源」出版により約70年前の1792年頃に、長年の研究から「人類を含むすべての動物は共通の子孫から発展したものだ」という考え方にたどり着き、1793年に65歳で亡くなります。丁度この年、フランス革命でルイ16世が処刑されています。
このようにジョン・ハンターの科学的な視点や客観的な観察、比較、推論の能力の積み上げが死後に出版される「博物学、解剖学、生理学、心理学、地質学に関する小論と観察」と題する書物に結実しています。
彼のこのような科学的な姿勢は、経営において、今後どのようにして進めていくかという問いにおいても示唆に富んでいます。この本は、ジョン・ハンターのように、既存の常識に疑問を投げかけ、現状を観察(分析)、比較、推論などを通じて積み上げることが、経営戦略や戦術を構築していくビジネスの世界でも重要であることを考えさせられる一冊でした。
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