夏まつりからの采女伝説

夏まつりからの采女伝説

コーディネーターの山崎です。毎日暑い日が続きますね。7月から8月にかけては各地夏祭りが開催されています。盆踊りや花火大会などが多いですかね。県内でも、わらじまつり、うねめまつり、いわきおどりなどが開催され、大声でのかけ声も規制がなくなり、思いっきり楽しむことができるようになりました。本当に待ちに待ったという感じです。

私が住む郡山市では、うねめまつりが開催されました。8月3日(木)には、片平町の采女神社でうねめ供養祭が執り行われ、郡山西部地区商店会主催のちびっこうねめまつりが3年連続中止を経て、今年ついに開催されました。そして8月4日(金)と5日(土)は郡山駅前大通りでうねめ踊り流しが盛大に執り行われました。

郡山市の方々は「うねめ」について知っている方が多いと思いますが、他の地域の方は知らない方も多いと思います。わたくし山崎は喜多方出身ですが、郡山市には26年間住んでおりますので、「うねめ」についてはなんとなくは知っていました。
このたび、「うねめ」に関して正しく理解するために、采女伝説について調べてみましたので、みなさんにも紹介いたします。

約千三百年前、陸奥の国安積の里(現:郡山市)は冷害が続き朝廷への貢物ができないほどであった。そのため奈良の都から巡察使葛城王が訪れた。そこで里人たちは窮状を訴えて貢物の免除をお願いしたが、王はその願いを聞いてはくれなかった。その夜、王をもてなす宴が開かれ、その際に王は里長の娘である春姫を見そめた。春姫は心から王をもてなし、「安積山影さえ見ゆる山の井の浅き心を我が思わなくに」と詠み、献上した。王は大変喜び、春姫を帝の采女として献上することを条件に、貢物を三年間免除することになった。春姫には次郎という許嫁がいたが、里人のため悲しみをこらえて次郎と別れ奈良の都に向かった。都で春姫は帝の寵愛を受けていたが、仲秋の名月の夜、奈良猿沢の池畔の柳に衣を掛け、入水したように見せかけ、愛する次郎がいる安積に向かった。やっとのことで春姫は安積の里にたどり着いたが、次郎は春姫が帝の采女になってしまったことをはかなんで山の井の清水に身を投げ、もうこの世にはいなかった。それを知った春姫は悲嘆に暮れ、雪の降る夜に、次郎の後を追って同じ山の井の清水に身を投じた。(郡山うねめまつり実行委員会のサイトより引用)

なんとも切なくやるせない物語ですね。山の井の清水は、現在も市内片平町に残っています。
郡山市内には、静御前の伝説もあります。源義経を追って陸奥の国に入った静御前は、現在の郡山市大槻町にて、平泉での義経の死を知って、近くの池に身を投げたという伝説です。その池は美女池と呼ばれ現在も残っています。また、静御前を供養する静御前堂が市内大槻町にあります。ただ、静御前の墓は他の各地にもあるようなので、この伝説が史実かどうかは分かりません。あくまで伝説なのです。

郡山市磐梯熱海には萩姫伝説もありますので、女性の伝説が多い町であることに驚かされます。
江戸時代の郡山は二本松藩の領内であり、現在の「陣屋」地区に代官所が置かれていましたが、小さな宿場町でした。それが明治に入って、後に日本遺産に認定される「一本の水路」安積疎水の開削と安積開拓により飛躍的に発展し、その後の鉄道の開通により郡山駅はターミナル駅となり、更に発展することになります。郡山はよく、よそ者の集まりだと言われます。しかし、そのよそ者が集まって原野を開拓し、広大な耕作地を作り上げた開拓者精神~フロンティアスピリットが、この郡山には根付いています。Greeeenの生まれた町でもありますね。

会津若松や福島、いわき平や白河には、江戸時代に城いわゆる政庁があり行政の中心でしたが、郡山にはそれがありませんでした。そしてそれが、古いしきたりや規制の影響を受けず自由闊達な商工業の発展を可能にしたのかもしれません。あくまで私見ですが。
福島が県都と呼ばれるのに対し、商都と呼ばれる郡山ですが、伝説が多く残るロマンあふれる安積の里であったことを思い起こすのも、まつりのあとの静けさにはちょうど良いかもしれません。